世の中には「思いやり」に溢れている人がいる。
彼らは、悩みや困りごとに苛まれる人がいれば、自然と相手の感情に寄り添うことができる。
自分の成功を喜ぶ人がいれば、それをまるで我がごとのように共に喜び合える。とにかく、相手に対し過剰なほどに感情移入してしまうのが彼らの特徴だ。
・辛い思いをしてる人がいれば、それに寄り添うことができる
・相手に対し、見返りを求めない無償の善意が自然に出る
それが「優しさ」を測るバロメーターではないだろうか。
優しすぎる人は純粋だと思う。
優しさは素晴らしい資質だと思うし、僕も優しい人たちに出会いたい。付き合いたい。
とはいえ「優しすぎる」人というのは、その反動で「怒り」のパワーも大きくなる。
たとえば、自分の愛する人が害されるような場面においては、「そこまでやるか」というほど凶暴になることがある。
フィリピンのロドリゴ・ドゥテルテ大統領こそ、その典型例じゃないかと僕は常々思っている。
反社の連中を抹殺しまくるあの凶暴性はたしかにヤバいが、それは、優しさの裏返しなんじゃないかと。
法律では悪党を根絶できない。一般市民を本気で守るには、悪党には暴力で対抗するしかない。と、ドゥテルテさんは、ずっと考えてたんじゃないだろうか。
人に優しいほどに、悪に対する怒りの反発係数も大きくなる、と僕は思っている。
そう、振り子と同様、優しさと悪意は反比例するんじゃないかと。
髑髏は闇夜に動き出す

こんなに面白くて、痛快で、悲しくて、考えさせられたマンガは久しぶりだ。
この「髑髏は闇夜に動き出す」は復讐の物語だ。
89歳で余命宣告を受けた老人、藤村銀三。
家族はいない。身内もいない。
孤独死を目前に、これまでの天涯孤独だった人生を後悔する哀れな年寄りだ。
後はゆっくり孤独に野垂れ死ぬだけ。どうしようもない。
…
ある日のこと、藤村の隣に親子3人家族が越してきた。
塞ぎ込む藤村に、
「ウチで食事でも一緒にどうですか?」
と誘う隣の旦那さん。なぜか妻子供も大歓迎してくれてる。
彼らの暖かさに当初は戸惑っていた藤村だが、徐々に冷え切った心が動かされていく。
(もしワシにも家族がいれば、こんな感じなんだろうか?)
家庭の暖かさとはこういうものか、幸せとはこういうものなのかと、藤村は家庭というものを初めて感じることができた。
彼らとは赤の他人だが、ずっと天涯孤独で生きてきた藤村にとっては、まるで家族ができたかのようなこの暖かさが嬉しかった。
彼ら親子に感謝と愛情を抱くようになり、お隣さん親子は、藤村にとってかけがえのない存在へと変わっていった。
怒りと復讐が老人を鬼に変える
そんなある日のこと、お隣さんの家の様子がどうも変である。
ノックをしても反応がない。
しかもドアが開いている。
心配になった藤村が家の中に入ると、そこにはとんでもない惨劇がお隣さん一家を襲っていた。
あまりに突然の悲劇にショックを受ける藤村。
すると、フード姿の男2人が家から出ていく。こちらには気づいていない。
フードからチラッと覗く男の顔が藤村の目に焼きついた。
法は善人に厳しく悪人に優しい
この復讐だけは、ワシの手でやらねば意味がない。奴らを警察に渡すわけにはいかん。
という裏側に込められた強烈なメッセージ性が、僕をしびれさせた。
わかる気がする。
どんな重罪人も、捕まれば服役するだけ。半グレの中には、数年経てば出て来られるとか開き直ってる輩もいる。
後悔して更生して出てくるならまだいいが、カケラも反省せずに出てくる悪党がいる。
しかも元凶の大元は捕まらないパターンもある。のうのうと普通に笑って暮らしてるかもしれない。
ありえない。被害者家族は、どういう気持ちだろう。
法治国家とかいうけど、その実、法を無視する悪人が法の庇護下にあるのは納得いかん話である。
被害者は復讐したくてもできない。法の前に泣き寝入りするだけ。
昔は、極悪人が捕まれば、警察にはあえて知らせず、村の中で極秘裏に◯◯◯を加えたらしい。
ハンムラビ法典にある「目には目を 歯には歯を」は、現代では野蛮にみられがちだけど、
被害者の気持ちを汲み、悪人に相応の罰を与えるという意味では、現代の法律よりも遥かに人間的なのかもしれない。