『ネバーエンディング・ストーリー』という映画を超久しぶりに見た。
1984年製作と古い映画だが、有名なのでご存知の方も多いと思う。30代半ば以上の方は、ほぼ知っているのではないか。
公開当時は大ヒットしたようで、僕も子供の頃何度か見たことがある。
主題歌ね。聞いたことあるだろう。
素朴で優しいテンポの、いつまでも頭に残る曲だ。これもまた、当時世界規模で大ヒットした「リマール」の名曲である。
僕が最後に見たのは、中学生の頃の再放送か何かだったと思う。実に約25年ぶりか。
子供時分に見た映画やアニメは、大人になってから見返すと、なかなか感慨深いものがある。
当時は気にもとめなかったシーンが妙に刺さったり、セリフに込められた製作者側の意図が汲み取れたりと、子供の頃と今との感性の違いってのを感じることができる。
ネバーエンディング・ストーリー
『ネバーエンディング・ストーリー』は、児童文学者ミヒャエル・エンデ作の『はてしない物語』をワーナーが実写化したものだ。
商業的には成功を収めた作品だが、原作者のミヒャエル・エンデ自身はお気に召さなかったようで、
特に映画の終盤部分が別物に描かれている点では揉めに揉め、ワーナー側との間で訴訟問題になったようだ。
こうした実情を聞くとシラケてしまうが、とりあえず、この映画が多くの人の記憶に焼き付いているのは間違いない。
…
いじめられっ子の「バスチアン」は、いつものように近所の悪ガキに絡まれ、追い回されていた。
捕まればゴミ箱に突っ込まれる。バスチアンは、たまたま見かけたコリアンダー書店に、たまらず逃げ込む。
突然転がり込んできた少年を、店主は当初煙たがっていたが、
自分は本が大好きで、これまで読んできた物語がどんなに素晴らしい内容かを訴えるバスチアンを、店主は徐々に気に入りはじめる。
店主は、ふと自分の手元にある一冊の分厚い本を指し、
「この本は特別だ。おまえがこれまで読んできたものとは次元が違う。」
「空想を働かせてロビンソン漂流記を読めば、ロビンソン・クルーソーになりきれるし、海底二万マイルを読めばネモ船長にだってなりきれる。
でも、この本はそれらとは全く違う。引き返せなくなる。危険だ。もう忘れろ。」
とバスチアンに言う。
そう釘を刺されると、無類の本好きの少年は余計気になって仕方がない。
すると電話が鳴り、店主は電話をとりに隣の部屋へ行った。
その隙にバスチアンは、つい出来心から、本を抱えて店から走り去ってしまう。
が、これこそがコリアンダー店主の思惑だった。本が消えてるのを確認し、ニヤリと笑う店主。
その後、授業をサボって校内の一室にこもり、早速例の本を開くバスチアン。
少年はすぐさまその不思議な内容に魅せられた。そこは「無」が全てを飲み込もうとしている崩壊寸前の世界「ファンタージェン」。
読み進めるごとに、バスチアンは不思議な感覚に囚われていく。
驚くべきことに、その本の内容はバスチアン自身に向けて語られたものだった。
演出がチャチいのは仕方ない
いくらハリウッド映画のヒット作とはいえ、1984年製作のファンタジーものは正直チャチい。子供の頃は夢中にさせられたあの演出も、今改めて見ると突っ込みどころ満載である。
CG技術なんてほぼ使われておらず、映像技術でいうなら、往年の超大作「ロード・オブ・ザ・リング」とは雲泥の差だ。
とはいえ、この超アナログ感こそが、逆に新鮮さを醸し出しているのも事実だ。たとえば「毛むくじゃらの竜」の、あのリアリティ感には今でも脱帽する。
問題はストーリー構成。
序盤と中盤に出てくる岩の巨人や、アトレイユにお守りを渡すおっさん等々、作中には、いろんな登場人物が出てくるが、全員中途半端で退場していく。彼らの役割や存在意義が僕にはわからない。
はっきり言うが、ストーリー構成はめちゃくちゃ荒い。
それでも、この映画が印象深い理由
とはいえ、この映画は後半に差し掛かると雰囲気が一変する。
物語終盤のファンタージェン崩壊の際には、作中にいるはずの「幼ごころの君(王女)」から、いよいよ、「助けて!バスチアン!」と実名で語りかけられる。
現実の世界で混乱するバスチアン。

「無」がファンタージェンを滅ぼすのは、人が夢をみるのをやめ、希望を捨ててしまったからだ。との言葉には、
好景気に湧いていた1984年当時の日本人にはピンとこなくとも、今の日本人には胸に響くものがあるはずだ。
とりあえず僕は、この子供の頃大好きだったこの映画を、25年の時を経て見たわけだが、
当時とはまた別の感動や発見があり、見て良かったと思う。
年末年始のヒマを利用して見てみるのも良いかもしれない。