人間社会は階級社会だ。
それは今も昔も変わらない。
王侯貴族と平民の間にまたがる格差という壁は、現代においては所得格差という壁に変化したに過ぎない。
民主主義・人権尊重などというベールに覆われてはいるが、身分という本質的な部分はあまり変わっていない。
今回は、身分による格差、とはどういうものかを考えてみたい。
身分による格差とは何か。
お金の有無による格差はもちろんだが、それ以外に何かあるのだろうか?
例えば、天皇家や英国王室をはじめとする名家の出と言われる人たちと、一般庶民とでは何が違うのか。
人類史上初めて、その身分による格差を縮めようとした試みは「フランス革命」だ。
フランス革命は、特権階級である王侯貴族と何も持たない平民との間の熾烈なイデオロギーの争いだった。
特権階級は、自らの利権を守りつつ平民の怒りを鎮めるため、彼らにとって出来得る限りの是正に努めようとした。
平民は、自分たちの生活水準の向上のためには、王侯貴族から特権を剥ぎ取らなければならないと、暴力という手段を選んだ。
そして、王侯貴族たちを中心に、罪人も無実の人も関係なく多くの血が流された。
『ギロチン』 と呼ばれる断頭台によって。
では、多くの特権階級の血を流したことで、当時の貧しい人たちは身分の格差の是正に納得できたのだろうか?
私はそうは思わない。
むしろ、超えられない壁をまざまざと見せつけられたはずだ。
『気位』『気品』
という、決して超えられない壁を。
生まれながらに名家の名を背負う人たちの纏う 『気位』 や 『気品』 は、決して一般庶民には身につかないものだ。
それがどういうものかを知りたければ、死に様を見れば如実に理解できるだろう。
デュ・バリー夫人
フランス革命という激動の渦に飲み込まれ命を落とした2人の女性について見てみよう。
『デュ・バリー夫人』こと、本名マリ=ジャンヌ・ベキューは下賤の身でありながらもその美貌によりルイ15世の寵愛を受け、その愛妾としてパリの社交界への進出に成功した女性だ。
デュ・バリー夫人(1743年8月19日 – 1793年12月7日)
1743年にフランスシャンパーニュ地方の貧しい家庭に私生児として生まれる。
幼少の頃、男遍歴の多い実の母親に一度捨てられているが、その母親が金持ちと再婚したため連れ戻される。
その後は十分な教育も受けさせてもらえたようだ。
しかしながら、成長したマリ=ジャンヌ・ベキューは素行が良いとは言えず、なかば娼婦のような仕事で生計を立てていたらしい。
シルバーブロンドの髪と白い肌をもつかなりの美人であったと言われる。
死刑執行人シャルル=アンリ=サンソンと情事にふけっていたのもこの時期だが、のちにサンソン自らの手で彼女を処刑することになろうとは、2人とも夢にも思わなかったことだろう。
20歳の頃、高級貴族相手の売春斡旋業者であるデュ・バリー子爵に囲われるようになり、連れてくる客人の夜の相手をさせられるが、多くの高級貴族の相手をする内に、自然と礼儀作法なども身についてしまったようだ。
そこから、デュ・バリー子爵により社交界に連れまわされる生活となるのだが、そこで『ルイ15世』と出会うことになる。
当然の如くルイ15世はデュ・バリー夫人の若さと美貌に夢中になり、めでたく夫人は公妾という立場を勝ち得ることになる。
その後は公妾として絶大な権力を握ったそうだが、格式を重んじる宮廷内では当然のごとく、下賤の身である元娼婦などがそう簡単に受け入れられるわけがない。
王太子妃『マリー・アントワネット』とは犬猿の仲であったことからも伺えるように、人間関係においては相当な苦労があったことだろう。
娼婦出身であることと、「ベルサイユのばら」では悪女という設定で描かれていたため性悪女という誤解があるようだが、実際は気立ての良い善良な女性だったようだ。
その気さくさと親しみやすさから、多くの貴族からも好かれていたらしい。
それは、死に際を迎えたルイ15世が、彼女に財産を持たせて宮廷を去らせようと身を案じていたことからも伺える。
フランス革命とデュ・バリー夫人の致命的ミス
1775年 ルイ15世死去。
ルイ15世の遺言通り、デュ・バリー夫人はパリ郊外に逃れており、持てる財産で愛人などを囲い裕福で自堕落な生活を送っていた。
晩年の彼女は、傾城の美女とまで言われた美貌は消え失せ、ただの太ったオバさんと成り果てていたらしい。
裕福で自由きままな生活は、彼女にとって幸せではあったことだろう。
だが、絶対に失くしてはいけないものを失くしてしまったようだ。
時代の危険性を嗅ぎ分ける緊張感を。
豊かさと老いが、彼女からサバイバル能力を奪っていた。
1789年 フランス革命勃発
貧困に喘ぐパリ市民たちの不満が遂に爆発し、バスティーユ牢獄を襲撃そして武器を奪われる。
ルイ16世の乏しい能力では事態を収拾できず、それによりさらなる暴力の渦へと発展することになる。
当時のパリは、ハッキリ言って危険地帯であり、王侯貴族にとってはまさに地獄絵図と化していた。
それはまさに、パリにいること自体が自殺行為といっても良いほどの惨状であり、第3身分からの憎悪・殺意・暴力で満ち溢れていた。
デュ・バリー夫人のとった行動は、驚くべきものだった。
革命の最中に愛人がギロチン送りにされたと知った夫人はロンドンへと避難している。
この選択は正しかったのだが、
あろうことか、そこから宝石などの私財を回収するために再びパリへと舞い戻ったのだ。
バカなのか⁉︎
死にたがりか⁉︎
自分も平民の出であるので関係ないなどと、警戒心を解いていたのだろうか?
彼女のような、悠々自適に暮らす貴族の愛人などは、第3身分の平民階級から見れば当然、許されざる存在である。
案の定、捕らえられ断頭台送りが決定されるのだが、彼女は渾身の助命を嘆願したらしい。
「宝石をはじめ、わたくしの全ての財産をお渡しします!
だから、どうか。
どうか、命だけは助けてください!」
必死の嘆願だったようだ。
しかし、革命派の返答は、
「マダム!
こうもあっさりと自らの財産の在り処を自白してくださるとは!
よろしい。
貴女を生かすべき理由は何一つ無くなった。」
聞いた瞬間、夫人は卒倒したと言われている。
『ギロチン』 を前にした彼女の姿は想像を絶するものだったと言われている。
昔の恋人である、死刑執行人のサンソンに泣いて命乞いをしたそうだ。
断頭台のまわりを、狂人か動物のように見苦しくわめき散らしながら逃げ回り、見物に来ている一般庶民にまで命乞いをしたと言われている。
サンソンは自らの手で刑を執行できず、息子に刑の執行をさせた。
おそらく、「傾城の美女」とまで称えられ、優雅な思い出の残る昔の恋人の変わり果てた姿に耐えられなかったのかもしれない。
やがて捕らえられ、断頭台へと押さえつけられる。
それでも、夫人は抵抗を止めなかった。
50近い女性とは思えないほどの凄まじい力で暴れまわり、大人の男数人がかりで押さえつけなければならないほどだったという。
それでも、凄まじいほどのアゴの力で柄などに噛み付き最後の最後まで抵抗を止めなかった。
そしてついに 『ギロチン』 の刃の下に頭を押さえつけられる。
その表情は、涙で溢れており、この世の者とは思えないほどの凄まじい形相だったそうだ。
そしてこれが、彼女の死に顔となった。
彼女の出自は下賤の身であり、決して貴族ではありません。
貴族ではないからこそ、こんな姿を晒すことができたのです。
彼女の死に様は、その場にいた多くの人たちの人生観を変えてしまったとまで言われています。
これまで断頭台の犠牲になった貴族たちが、デュ・バリー夫人のように泣き叫んでいたら、もっと早く恐怖政治は終わっていたとも言われています。
私は、デュ・バリー夫人のことが、決して嫌いではありません。
むしろ、好感すらあります。
様々な資料を読むうちに、彼女の優しさや人柄の良さが伝わるのです。
ただ、あの時、なぜパリに戻ったのか?
なぜ、財産と命を秤にかけられないほど、平和ボケをしていたのか。
彼女の犯した最悪の選択ミス、とても残念に思います。