昔も今も、民衆というものは知性と教養に欠けた愚か者の集合体だと言えよう。
愚か者がいかに扇動されやすいかは、歴史上の様々なシーンが証明している。
そして、扇動された群集心理が示す常軌を逸した残虐性も…
革命前夜
フランス革命の最大の原因には、国民への増税と課税対象の不平等性が挙げられる。
(その他にもたくさんあるが)
国民に対し重税の上に増税を課した理由とは、フランス国庫の逼迫によるものだった。
逼迫の原因とは、ルイ14世・15世時代の莫大な戦費のツケだ。
特にルイ15世時代の杜撰な放漫財政は、あまりにもひど過ぎるものだった。
ルイ15世 (1710年2月15日~1774年5月10日)
その中でも、ライバルであるイギリスに対する嫌がらせという理由だけで、アメリカ独立戦争へのアメリカ側への援助として20億リーヴルを気前よく差し出した事は、国家に致命傷を与えたと言っても過言ではない。
当時のフランスの歳入が年約5億リーヴルだったのだから、その援助額がいかに桁外れで危険なものであったかを物語っている。
強気で自身を売りたかったのどうかは分からないが、オツムの方は足りなかったようだ。
そして援助後に当の本人はさっさと死んでしまうのだから、莫大な借金のみ残された方はたまったものではない。
しかもそのツケを払わされるのは第3身分と呼ばれた平民側であり、特権階級側には一切の納税が免除されていたというのだから、国民がキレた気持ちもわからんではない。
悪い事は立て続けに起こるもので、ルイ16世の治世の最中にはフランス全土が天候不順による飢饉に見舞われている。
収穫物の不作からインフレが起こり、日々口にするパンでさえもが値段の暴騰により手に入らなくなった。
国家にも金がないので国民を食わせるどころか打つ手なし、むしろ増税を課す始末である。
国民の不満と怒りは最高潮に達していた。
しかも、当時のフランス社会ではルソーやヴォルテールといった啓蒙思想家が、社会情勢に追い打ちをかますように旧体制(アンシャン・レジーム)を叩き潰せなどと国民に吹聴し煽りまくっていた。
もはや革命の可能性がどうこうなどという問題ではない。
いつ、革命を起こすのかという最終段階まできていた。
マリー・アントワネット
私は、フランス革命の原因はルイ14世・15世の失政にあると思っている。
ルイ16世は政治経済には一切の興味を持たず、己の趣味のみに生きる愚鈍ではあるが人畜無害な国王であり、国民に害をなした直接的人物ではない。
マリー・アントワネットの莫大な浪費のせいで国庫が破綻したなどとも言われているが、それは真っ赤なウソである。
贅沢三昧の生活を送ってはいただろうが、彼女の浪費した額など国家財政という規模で見ればたかがしれている。
(趣味でプチ・トリアノンを建てたりと浪費ランキングNo.1ではあったが)
彼女の有名?なセリフ
『(国民は)パンが無いというのならば、ケーキを食べればいいんじゃない?』
これは彼女の政敵が流したデマであったが、こんなデマが国民に本気で信じられる程、浪費癖によりマリー・アントワネットのイメージは地にう落ちていたのだ。
つまり、国王一家はさしたる罪を犯していないにも関わらず、そのイメージの悪さ故に国民の憎悪の矛先が向けられただけだと考えられる。
むしろ、彼らはフランス革命最大の被害者であったとも言えるのだ。
マリー・アントワネットは、オーストリアの女帝マリア=テレジアの娘で、幼い頃から美しく、天真爛漫で明るく無邪気な性格であったといわれている。
ブルボン王家に嫁いだ当初は、夫であるルイ16世と趣味が合わず何より彼がタイプではなかったため、かなりの退廃的な放蕩を繰り返していたようだ。
マリー・アントワネット・ジョゼファ・ジャンヌ (1755年11月2日~1793年10月16日)
マリア=テレジアは、非常に深い愛情を彼女に注いでいた。
それは、若くして王太子妃として嫁いだアントワネットの身を案じ、彼女の至らぬ細かい点までを諌める内容の手紙を何通も出していることからも伺える。
そしてヨーロッパ随一の強国であったブルボン王家へと嫁がせていることが何よりの証明なのだが、コレが逆にアントワネットにとっての地獄への片道切符となってしまったのは皮肉としか言いようがない。
国王一家の悲劇の始まりは『バスティーユ牢獄の襲撃』だった。
1789年 怒りに燃えた民衆がバスティーユ牢獄を包囲した。
要求は「武器の差出し」
当初は、司令官ロネと代表者3名との冷静な話し合いであったが、交渉が決裂するや否や、司令官ロネをはじめ近衛兵ほぼ全員が殺害されている。
ロネは五体バラバラにされ、その首は槍の穂先に突き刺し掲げられた。
その危険かつ野蛮な事件に凍りつき恐れおののいたルイ16世とアントワネットは、精強かつ国王への忠義心旺盛な『フランドル連隊』をパリに呼び寄せたのだが、愚かにも『フランドル連隊』到着への豪華な祝宴を開いたという。
コレが挑発行為であると受け取られ、国民の怒りをさらに増幅させる結果となった。そして、
ついにフランス革命勃発。
まず、ヴェルサイユ宮殿へ向けたデモ行進が起こった。
その数は想像を遥かに超えるものであり、多くが暴徒と化し、パンをよこせと叫ぶ者やブルボン王家に関わる全ての王侯貴族に対する殺害予告をする者で溢れかえっていたのだ。
狂気の暴民を目にしたマリー・アントワネットは、一度は秘密の地下に避難するのだが、事態の収拾がつかないことに気付き自ら交渉に臨むことになる。
バルコニーに現れた彼女の姿には恐れや怯えはなく、むしろ堂々とした気高さすら感じられたそうだ。
その姿と声には、さすがの暴民からも汚いヤジは止み、
「国王一家をパリへ連行せよ」
という叫びにまでトーンダウンしたという。
結局、国王一家はヴェルサイユ宮殿から荒れ放題のチュイルリー宮殿に移送されることになった。
それから数ヶ月後、彼らは絶対にミスってはいけないミスを犯すことになる。それは彼らに、確実な死をもたらす類の重大なミスであった。
国王一家の
オーストリアへの逃亡の失敗
ルイ16世の顔でバレてしまった。
不幸にもこの男の顔は、一度見れば忘れられないほど特徴ある容貌だったようだ。
パリへ連れ戻された国王一家には悲惨な待遇が待ち受けていた。
いくら国王一家といえど、逃亡に失敗した者に敬意を払う者などいるはずがなく、あばら家のチュイルリー宮からタンブル塔へ幽閉されることになる。
そこからの生活は、国王一家にとって計り知れぬほど残虐で過酷なものとなる。
親友ランバル夫人の非業の死
マリー・アントワネットから受けた恩を忘れず、忠誠を誓い続けた女がいる。
ランバル公妃マリー・ルイーズという女性だ。
マリー・テレーズ・ルイーズ・ド・サヴォワ=カリニョン (1749年9月8日~1792年9月3日)
革命勃発前、ランバル夫人はヴェルサイユ宮殿において女官庁を務めた人物で、アントワネットからの信頼も厚く、その関係は上司・部下というより親友といっても良いほどであった。
ランバル夫人は控えめで裏表のない性格で、義理人情に非常に厚い人物だった。
そして何より、自分の主人であるマリー・アントワネットを敬愛していた。
革命勃発後、彼女は亡命を勧められるがこれを断ってまで国王一家を助けようとする。
単身イギリスに渡ってまで国王一家の助命の約束を取り付けたり、身の危険を顧みず『殺戮都市パリ』に舞い戻り王党派との連絡係として精力的に活動していたことからも、その忠義心の厚さが伝わるだろう。
しかし、健気な努力の甲斐もなく、革命派により捕縛されてしまう。
彼女は革命派により革命の正当性を証言するよう強要されたが、これを拒否したため残酷な死を迎えることになる。
彼女の殺され方は、首から下腹部まで切り裂かれ心臓をえぐり出されるという非情に凄惨なものであった。
さらに首をはねられ、その首は、こともあろうか塔に幽閉されるマリー・アントワネットの寝室の窓に掲げられた。
この時のアントワネットの心境を語れる者など、地球上で誰一人としていないはずだ。
国王一家の最期
国民議会は、ルイ16世の処刑を決定した。
裁判は革命派にとって非常に恣意性のあるもので、一国の王に対する裁判とは思えないほど公平性に欠けた裁判だったようだ。
1793年1月21日 ルイ16世は『ギロチン』への階段を上ることになる。
処刑人はシャルル=アンリ=サンソン。彼は生粋の王党派である。
敬愛する国王を刑に処さなければならなかった彼の気持ちとは一体どんなものだったのだろうか。
国王は、取り乱すことなく抵抗もせず、粛々と自らの運命を受け入れたそうだ。
これが、愚鈍ではあるが善良であった不幸なフランス国王の最期の姿だった。
国王の次は、僅か7歳のルイ・シャルルの番だった。
アントワネットは気が狂ったように長時間泣き叫び、決して我が子を話そうとしなかったが、虚しい抵抗だった。
そして、夫と息子を失った数ヶ月後、マリー・アントワネットの処刑の時が来た。
相も変わらず国王一家への敬意に欠く侮辱的な裁判であったが、この頃のアントワネットには表情らしきものが消え去っていた。
何も感じず、何も考えられず、ただ王妃としての名誉ある死を望むだけのようだった。
その時点でのアントワネットは38歳。
あれほど美しかったブロンドの髪の王妃は、白髪に変わり果て身体も衰弱しきっており、まるで老婆のようだったという。
しかし、王妃としての気高さは残っていた。
処刑を迎えた朝、アントワネットを敬愛する独房の部屋係が泣きじゃくりながら朝食を持ってきた際も、彼女はうっすらと涙を浮かべただけで感謝を伝えて朝食のスープを食べたという。
そして、ついに『ギロチン』への階段を上る時が来た。
衰弱の激しいアントワネットは階段を上る際によろめいてしまい、処刑人サンソンの靴を踏んでしまった。
「ごめんなさい。靴を汚してしまいましたね。」
『ギロチン』の前に立たされたアントワネットは夫と同様、取り乱すことはなかったようだ。
無表情ながらも、その瞳はチュイルリー宮殿の方へと向けられていた。
おそらく、とても幸福とはいえないまでも家族揃った慎ましい生活を思い出していたのかもしれない。
マリー・アントワネットの最期の姿は、ブルボン王家の妃に相応しい「気位」と「気品」を兼ね備えた、実に気高いものだったという。
その2ヵ月後、アントワネットのかつての最大の政敵であった『デュ・バリー夫人』が全く同じ場所・同じ断頭台の前に立たされ、王妃とは真逆の姿を見せることになろうとは、歴史の皮肉を感じずにはいられない。
国王一家や彼女らの死をもって、王政を打倒した革命政府であったが、それで彼らが幸せになれたわけではなかった。
それどころか恐怖政治は益々強化され、多くの者をさらなる地獄へと叩き落としてゆくことになる。
その対象はもはや王侯貴族のみにとどまらず、革命派内部の反対分子や一般市民にも及び始めるのだ。
そう、『マクシミリアン・ロベスピエール』という男によって。