知識を仕入れたなら、それを実践で使わなければ意味がないなと、最近よく痛感する。
ほとんどの人は知識を仕入れたら終わりだ。その知識を活かし、ポジティブな変化をもたらす術をもたない。
良書を読み、読んだことに妙な達成感を覚え、そこで満足して終わる。それだけで自分のレベルが上がったと感じるが、
それは錯覚だ。
本読むだけでレベルが上がるなら、この世に苦労人はいない。
知識は活かしてなんぼである。
発言しなきゃ気が済まないほどの知識なら、まずは、実際に自分で体験することをお勧めする。
どんなに価値ある知識でも、肝心の体験が伴わなければ、自分の血肉にならない。発言にも説得力にもパワーが宿らない。
たとえば資格マニア。
資格を取得するのは素晴らしいことだが、持って満足してるだけでは何の価値も生まない。
それを活用する「取り組み」がなきゃ、せっかくの資格も単なるアクセサリーになり下がる。言うまでもないことだ。
ブログ書きもそう。
物書きの中には、他人の書いた本で得た知識を「アウトプット」などと称し、わざわざお披露目したがる「お勉強ブロガー」が多い。
が、それを彼ら自身が体験してるのか?といえば、ほとんどの場合は、無い。
どこぞの他人の知識を、我が物顔で書いてお披露目するのがアウトプットじゃない。
良質なアウトプットとは、自らの「学び→実践→結果」を発信することである。
自ら体験すれば、そこには成功談・失敗談が必ず生まれる。その上での独自の考察を発信するのが、真に価値のあるアウトプットだ。
あなたが学びを活かすことができない理由
とはいえ、何を発信しようが人の自由である。僕がとやかく言う筋合いはないだろう。
でも、情報発信者であれば、少なくとも、単なる「知識のお披露目」に何の価値もないということは心得るべきだ。
他人の知識のお披露目ほど滑稽なものはない。
そもそも、読んだだけで体験もしてないあなたが、著者の体験談や知識をどこまで正確に語れるのか、甚だ疑問である。
一流の事業家のアウトプットを、単なる雇われ人が感想を述べたところで、本当に理解できてますか?って話だ。
知識を披露して周りから賢く思われたい、その気持ちはよくわかる。
が、傍観者にすぎないあなたがそれを発信する必要はあります?と、僕は問いたい。
…
とはいえ、学んだことを実践に移すという作業は凄まじく大変だ。
並々ならぬ努力と度胸、意志の強さが要るのは当然だが、それ以前に、ほとんどの人は行動にうつせない。
実践できる環境にない。
なんてのは言い訳で、やろうと思えば何でも出来るはずだ。
いや、たとえ実践の場を与えられたとしても、ほとんどの人はそこに行かない。
95%の人は、既にできる範囲内(コンフォート・ゾーン)にとどまり、そこから出ようとしないからだ。
「価値ある体験」というものは常にコンフォート・ゾーンの外にあるのだが、95%の人は恐れが先立ち、そこにとどまる。
全力で取り組んだ経験にこそ、真の価値が生まれる
誤解しないでほしいが、僕は行動力信者じゃない。
知識が大切なのもわかっている。行動する上でも、知識を仕入れる・仕入れないでは大きな差が出る。
いくら行動力と発信があっても「知識」がなければ改善できず、結果、薄い発言しかできない。
徹底的に開き直れば、立派な詐欺師の出来上がりだ。
知識は本当に大切だ。
書籍には、著者自身の貴重な体験談と知識が詰まっており、良書を読み込むことで、著者自身の貴重な「体験」と「考察」を知ることができる。
それは、凡人1人の限られた時間では絶対に知ることが出来ないものだ。
その著者の奥義を人生に落とし込めれば、計り知れないパワーを生み出せるのは間違いない。
とはいえ、ほとんどの人はこれができない。
ほとんどの人は、知識を学校教育の延長上でしか捉えられないからだ。つまり、知識を単にインプットして終わるからだ。
学校教育では単に暗記するだけで、テストで如何に高得点を取れるかに重きを置いている。知識・行動・体験・考察のサイクルがもたらすものを教師は教えない。
が、社会における本物の「価値」は、
・知識を得る
・頭で考える
・それを実践し体験する
・成果(反応)を見る
のサイクル=繰り返しから生まれる。
やってみればわかるが、これは相当に大変なことだ。なぜ大変か?
このサイクルで生きてる人がいないからだ。誰も教えてくれないから。
ほとんどのオトナは、他人から与えられたものに対し、如何に高得点を取れるか?といった価値観でしか生きていない。
彼らはアイデアを一切もたず、可能性を試さないままに一生を終えていく。
このサイクルに取り組もうものなら、アドバイスどころか批判されるだけ。賛同はない。
孤独な取り組みだ。リサーチにも膨大な時間がかかるだろう。自分の頭で思いつくこと全てを自分一人で調べ上げ、それを試すのも、これまた自分一人だけ。
全く成果も上がらない。無駄で終わったと沈むことも多いだろう。
点と線の意味
だが、その無駄な取り組みにこそ、価値が宿るのも事実である。
「無駄だった」というのは単なる結果であり、その結果=体験は、あなたの行動があったからこそ知り得たものだ。行動がなければ、それが無駄かどうかすらわからなかったはずだ。
逆説だが、この世に無駄なんてものはないと僕は考えている。
あえて無駄というなら、それは、体験もしていない他人のアドバイスを真に受け、何も行動しないまま、いつもと変わらない冴えない日常を悶々と過ごすことだ。
今は「点」として思えないことでも、将来それが何らかのかたちで「線」として繋がっている。
てなことを、かつてスティーブ・ジョブズがスタンフォード大学で語ったが、
この点(=経験)というのは、全身全霊を傾け必死で努力して取り組む「経験」のことである。平凡で楽な生き方に「点」は生まれない。
その経験は無駄で終わったという経験かもしれない。絶望や挫折を伴っただけのものかもしれない。
が、そうした全力でやり抜いた濃い体験は、どんなに思い通りにいかない辛いものだったとしても、将来振り返れば「線」として繋がっているものである。
そして、そうした「点」が多ければ多いほど数多くの「線」をなす。
その「線」はやがて「面」を成すほどに形成され、その「面」が、あなたを飛躍させる発射台となる。
せっかく学んだ知識は知識として消化してはもったいない。
学べば、それを行動に活かそう。知識とアイデアを融合させよう。それを体験に移そう。
それが、今後のあなたの人生をつくっていく。