日本人が美徳とする価値観の一つに『滅私奉公』というものがあります。

私、この『滅私奉公』という価値観が大嫌いです。

どれくらい嫌いかといいますと、

 

『滅私奉公(又はそれに近い言葉)』を大義名分として、余分な仕事を強要された場合、

体から全ての覇気が消え失せ、口からエクトプラズマを出しつつ職務放棄して家に帰ってしまう。

 

それくらい大嫌いです。

 

認めます。私って、労働者としては不適切なんだって。認めますとも。滅私奉公は日本人のもつ数少ない美徳なんだって。それも、他国に誇れるほどに。

東北大震災の時だって、福島第一原発の所長以下従業員たちが『滅私奉公』の精神で被爆しながらも事態の収拾に当たるという神行為があったからこそ、今の私たちの日常生活がある。

この究極の自己犠牲こそ、まさに『滅私奉公』であり、日本人が決して失くしちゃいけないものなんだって。

それでも敢えて言います。

 

大嫌いだ。

 

こんにちは、ブロガー伴です。今日は『滅私奉公の危険性』について書いてみます。

 

滅私奉公の精神が危険極まりない理由

己を滅し公に奉ぜよ。

つまり、組織からの要求に尽くすことのみを考えなさい。個人的欲求や己の主義主張などを表にださず、自分というものを押し殺しなさい。コレ、日本人であればみなさんよくご存知のことと思う。

この価値観が日本に根付き始めたのは、鎌倉か戦国時代。バリバリの封建主義一色の社会情勢の中で生まれた価値観ってわけだ。この価値観が当時の日本社会で受け入れられたのは、当時の時代背景そのものに見事合致していたからだ。

〇 家臣はその働き(戦における)に応じて、主君から封土(土地)が褒美として与えられる。

〇 土地(農民を含めた)を頂くからには、全身全霊をかけた働きで主君に応える。

〇 土地の主となった領主は統治下の農民に対し、敵の襲撃から農民の財産・生活を保証するという保護を与える。

〇 生活の保護を与えられた農民は年貢や戦役という働きをもって、領主に応える。

こんなふうに、実にわかりやすい利害関係が成立していたわけだ。

 

ところが、この『滅私奉公』という価値観、相も変わらず現代日本においてもまかり通っている。日本の伝統的価値観として日本人のDNAに染み付いてしまっているんだ。

〇 労働者はその働きをもって、組織から褒美として賃金が与えられる。

〇 賃金を与えられるからには、組織からの要求に全身全霊をもった働きで応える。

こんなふうにね。

 

ここで何か違和感を感じないだろうか?

「但し、

“全身全霊をもった働き”とは、あなたの持てる時間の大部分を組織に捧げるということ。

もちろんサービス残業・休日出勤など当然であり、それに対し不満と感じるならば、それはあなたの心構えに問題があるのです。

あなたは自分の給料が安いなどとは考えてはいけない。

あなたは休日が少ないなどとは考えてはいけない。

あなたが毎日ご飯を食べれるのは、一体誰のおかげですか?

そうです。

お客様です。

そして、私たちが属するこの組織あってこそなんです。

自分の欲求ばかり主張するなど卑しいこと。

あなたは卑しい社会人ですか?

いいえ、あなたは違います。

だから、あなたは余計なことを考えてはいけない。

与えられる仕事に誠心誠意尽くすこと。

これだけを考えなければならない。」

そう、あなたが違和感を感じる理由とは、この但し書がスッポリ抜け落ちているからだ。

 

それに、戦国時代とは滅私奉公にあるそもそもの意味合いが違っていることに気づかないだろうか?

完全に利害関係が崩れている。得するのは組織側だけだ。もちろん、こんな但し書などが堂々と貼りだされて口にされる組織は少ないだろう。しかし、この但し書が暗黙の了解として共有される組織は多いのが現実ではなかろうか?

美辞麗句で塗り固められているが、ハッキリ言って、これは奴隷契約だ。日本社会が私たちに強要する滅私奉公。これを受け入れることは、まさに悪魔との奴隷契約を交わすということ。

 

ブラック企業のアイコン的存在となってしまった「ワタミ(株)」の創業者、渡邉美樹氏が(奴隷契約が何たるかを)非常にわかりやすく発言している。

「よく『それは無理です』って最近の若い人達は言いますけど、たとえ無理なことだろうと、鼻血を出そうがブッ倒れようが、無理矢理にでも一週間やらせれば、それは無理じゃなくなるんです」「そこでやめてしまうから『無理』になってしまうんです。全力で走らせて、それを一週間続けさせれば、それは『無理』じゃなくなるんです」
wikipedia参照

※私はワタミ及び渡邉美樹氏に対して悪意をもつ者ではありませんし、営業妨害の意図は一切ありません。

 

経団連の「滅私奉公」に関するありがたい説法もみてみよう。

「戦後の教育は、権利の尊重を過度に重視してきた。その結果、自らの権利のみを主張する弊害が目立つようになっている。権利と義務は表裏一体の関係にあることを踏まえ、権利意識とバランスのとれた公共の精神、つまり社会の構成員、あるいは組織・団体の構成員としての責任と義務を教育の中で強調していくべきである」
※wikipedia参照

 

こんな価値観で働かなければ生活ができないとは、人生の幸せなど一体どこにあるのか。

家族であったり愛するものをもつことが幸せの一つには違いないが、それ以外は全て滅私奉公の精神で、長距離ランナーのようにゴール(死)まで走り抜けというのだろうか。

 

滅私奉公を振りかざす、支配者側の言い分

とても残念なことなんだが、私の主張が正義として受け入れられるのは被雇用者側だけだ。

渡邉美樹氏をはじめ経営者の側に立つと、正義の概念は我々とは真逆となる。これは頭に入れておいてくれ。なぜかって?企業経営する側の人達にとっての正義とは「さらなる利益追求」だから。

企業とは、別に従業員に福利厚生を与えるような慈善事業を行ってるわけではない。今期の決算は前期よりも、今年の年次決算は去年よりも利益の増大を求められる。結果を取りこぼせば非常に厳しい審判を下される。上場企業であれば余計にそうだ。

苛烈なプレッシャーに晒される側の気持ちなど、被雇用者になど想像もつかないのだ。

市場においては、利益を上げるために人件費という経費を削減すること、つまり人員削減して残った従業員に負担を強いることはむしろ良策だと受け入れられる。

雇用はなるべく少数に抑え、なるべく長時間労働をさせ、なるべく安い経費に抑えたいという企業側の意図を読み取れば、上記のような経団連のありがたい説法にも合点が行くことだろう。

経営者と労働者とでは正義の捉え方が全く違う。渡邉美樹氏の主張や理念を見ればわかるだろう。「滅私奉公」という奴隷契約は労働者にとっては悪であるが、雇用者にとっては善であるということだ。

 

ただ、私が気にくわないのは、こういった事実をひた隠し「滅私奉公」などと美辞麗句で労働者をたぶらかし、過度の無償の奉仕を美化し強要することだ。

 

しかも、いつの間にか社会通念上当たり前になってるし。

 

結局どうすれば良いのか。

関わらないことだ。

関わってしまったのならば、なるべく早く去れるように準備をすることだ。何のススキルも身につかない仕事ならば尚更だ。

戦おうなどとは考えないほうが良い。資本主義社会にある以上勝てる見込みはない。ブラック認定される企業や組織が星の数ほど存在するのが何よりの証明だ。

戦っても時間と精神を消耗するだけだ。

 

去るのは敗戦ではない。ましてや恥などではない。次の勝利へ向けての膝屈伸とでも思えばよい。

関わる時間が長くなるほど、その分、あなたは幸せと時間を失っている。そもそもお金って、雇われることでしか稼げないものだろうか?

 

決してそんなことはない。あなたが気づいていないだけだ。