モノやサービスを作り出し、それを人に売る。
売って得たお金=売上金は借入の返済、仕入れ、事業への再投資、人件費へと当てられる。
残った金額が事業主の利益であり、売上=所得では断じてない。言うまでもないことだ。
売上の中からの消費活動が、今度は別の生産者の売上につながっていく。そこでの売上金が上記と同様、各方面の経費や消費に当てられる。
従業員は従業員で所得を消費する。その消費が、これまた消費先の生産者の事業活動へと繋がっていく。
というように「お金がぐるぐる回る」ことで全ての営みが機能する、というのがこの資本主義社会の構図である。
この循環が活発になれば景気は上がり、鈍化すれば不況に陥る。
「如何にお金を循環させるか」が、この資本主義社会においては最大の肝なわけだ。
単純に「売る」と「買う」を活発にすれば景気は嫌でも上向くが、この「売る」というのがなかなかに難しい。
難しいと同時に、「人にモノを売る」のは神聖な行為であると僕は思っている。
今回はその理由を述べてみたい。
「売り込む」と申し訳ない気持ちが出てくるのはなぜか
経済がシュリンクし、赤字企業が全体の7割を占め、国民所得は年々下がり、そのくせ競合他社だけはやたら溢れかえる今のこの日本。
ここで商品を「売り込む」のは簡単ではない。
「お金を欲するのは下品」との価値観が国民全体・DNAレベルで染み付く日本においては、「売る」行為への蔑みと警戒心はやばい。
商売経験のない人などはそれが顕著で、「売る」=「他人をだまくらかし私腹を肥やす、自分本位極まりない行い」との妙な思い込みが彼らにはある。
営業で来たとわかった瞬間、警戒心をあらわにするのはそのためだ。
とはいえ、
彼らからどれだけ蔑まれようとも、セールスする側としては売らなきゃならない。「お金を循環させる」ために。
ゴタクは要らない。まずは売る。売らなきゃ話にならない。
資本主義にどっぷり浸かった今の日本社会においては、「売る」ことこそが最も崇高で重要な役割というのは揺るぎない事実だ。
生産なんざ資本力があれば誰でもできる。
生産しても売れない or 売り方がわからないのが今の日本が抱える最大の問題である。
世界規模で一切何も売り込まれない日がたった1日でもあれば、この資本主義社会は一気に行き詰まるといわれている。
企業活動から個人レベルに至るまで、売れるか・売れないかはまさに死活問題だ。
そうだ!
商品単体よりも「それを売る」ことのほうが価値があるんである。
というように、「売る」ことが神聖な行いとするなら、なぜこうも人から煙たがられるのか。そして売る側が「売り込み」に妙に申し訳ない気持ちになってしまうのは、一体なぜか。
(嫌われるのが怖い)とのプライドがあるから。
つまらないプライドだ。
詐欺まがいの商品や商材を売るなら話は別だが、一般的に価値があると認められているものを扱い、それが相手にハマるとなれば、その提案は最高の価値提供になる。
遠慮はいらない。しのごの言わず「売る」べきである。
売ることで相手の問題を解決できるのであれば、なおさら遠慮などカケラも要らない。
ただただ全力で誠心誠意提案しよう。買うか否かを相手の決断に委ねるのは、そこまでやってからだ。
それによって相手から警戒され嫌われたなら、それはそれで仕方がない。でも僕の経験上、ほとんどの場合そうはならない。
相手に「売る」=相手と真剣に「立ち合う」
セールスにクソわざとらしい笑顔は要らんというのが僕の持論だ。
わざとらしくて胡散臭いだけのニヤケ面で訪ねて来られて、気分が良い人はいない。
その手の輩は口元と目つきが一致してないからすぐにわかる。
とくに営業のね、あのわざとらしいつくり笑顔が大嫌い。相手からすれば、胡散臭いだけでしょ。気持ち悪い。
そして「こうあるべき!」と教え込む古手の営業マン、本気で馬鹿だと思う。ポイントそこじゃねー。
— 伴 (@patoriot82) 2019年1月23日
お客様の前では満面の笑みで、元気ハツラツと、声は大きく、背筋はピンと伸ばし、お辞儀はビシッと!
こういうことを教え込む輩ってのは大概、「現場で通用しなくて管理職に回された人」か「はるか昔に第一線から退いてる人」かのどちらかである。
要はセールスマンとして使い物にならないから別ポジに回された。そういった方々だ。
自身が検証もしていない、こんなクソみたいな一般論を唱え・強要するから、新人が嫌気さしてすぐ辞めていくのである。
実際のセールス現場では、表面的な取り繕いはむしろ信用を落としかねない。商品が高額であったり、相手が凄腕の社長やトップエグゼクティブであれば尚更だ。
人に商品を売る、買っていただくというのは、こちらと相手との「立ち合い」に他ならない。
そう、鎌倉武士同士のあの「立ち合い」だ。
持ち前のニヤケ面とチャラさで売り抜けたところで、その後の良好で長期的な関係構築はできない。
できるとすれば同種の相手だけで、少なくとも尊敬する相手と巡り合うことはない。
「セールス=立ち合い」にへりくだりは要らない。
下手に出ると舐められる。舐められるから相手は平気で断るのである。門前払い食らうのだ。
たとえ売れたとしても、ゴマすってその場しのぎで売るから、相手は平気でクレームをつけるのである。
要るのはむしろ武士道精神である。
真剣に相手側と対峙し、抱える問題に誠実に向き合ったところに素晴らしい結果がある。その後の良好なる関係構築ができる。
必要条件と十分条件
セールス現場における武士道精神とは、相手に対しての「必要条件」と「十分条件」を整えることである。
売れない場合のほとんどは、この2つが整っていないことに集約される。
必要条件とは「何がなんでも売り抜く!」という自分の気概だ。
「クライアントから託されたこの商品、これを売り切らなきゃオレが自腹で買ってやる!」
「今年この目標を達成できなければ、ここを去るしかない!」
腹を決めるとでもいおうか、必要条件とはそうした類の覚悟のことである。
これらは極端だが、その手の覚悟は自分の行動を変える力となる。それは相手にも自然と伝わり、説得力が増していく。
要は、相手の心を動かすことができる。
セールスにおいては、ここが甘いとまず話にならない。
十分条件とは、簡単にいえば商品スペックと自身の行動プランのことだ。
いくら気概があっても、商品が相手の抱える問題と合致してなければ、決して売れはしない。
また、売れるための合理的な行動がなければ、いくら気合い入れたとしても売れはしない。
この必要条件と十分条件が整わせることが、商品を1つでも多く売る秘訣である。
そしてこれは自分自身との対峙=闘いでもある。まさに武士道精神であり、「売る」ことは神聖な行為と考える理由だ。