労働環境がブラックかどうかは、その人がどう感じるかによると思っている。

側から見ればブラック労働そのものでも、現場側からすれば(そうでもない)と、平然と働いてるケースはよくある。

ブラック労働の代名詞といえば飲食業界か。

僕からしてもブラックそのものだ。拘束時間やたら長いわ・立ち仕事で疲れるわで、あの仕事は僕にはできない。3日が限界だ。

客が入れば「らっしゃいませぃ!!」と大声張り上げ、注文聞いてメシを出す。安直なので誰でもできる反面、安直だからこそキツいのである。入れ替わりも激しい。

だが現場の人からすれば、意外にも(そうでもない)と感じているみたいだ。逆に彼らからすれば、僕の仕事内容の方がよほどブラックに感じられるとのこと。

この差はやはり「合う・合わない」が大きいのではないかと考える。

そしてもう一つ。

世間では「ブラック労働」への風当たりが強いが、これに追従して「ライフワークバランス」を主張する人は、大概稼いでない

働きまくってるにも関わらず稼ぎは「人並み」or「それ以下」な方も多いので、あまり声を大にしては言えないが、

 

人並以上に稼ぐ人は

人並み以上に働いている

 

労働生産性利益率は仕事によってまちまちだが、稼ぐ人間は基本的にほぼハードワークをこなしている。

 

仕事が合わなければブラック労働になる

そもそもな話だが、人並み以上に働けるのは、仕事が自分に「合っている」のが前提にある。

仕事が合っているからこそ真剣になれる。夢中になれる。課題解決に積極的に取り組むことができるし、アイデアも湧いてくる。

情熱といえば陳腐だが、「現状をより良くしよう」との努力ができるのは、その仕事が合っているからだ。

寝食を惜しまず課題解決に時間を費やせるのは、その仕事を通して、他者よりも優位に立てると感じられるからだ。

逆に仕事が合わなければ、情熱はおろか課題解決への意欲もヘッタクレもない。

そもそも仕事に関心がないので「早く解放されたい」しか頭にない。より良くするための解決提案どころか、その場しのぎで処理して終わらせようとする。公務員や官僚によくある「前例主義」こそ、まさにこれ。

働くことに意欲をもてない環境では、人は現状をブラックと認識しようとする。

労働の強度が高まり、勤務時間が伸びれば伸びるほど、ブラック労働に消耗させられているとの被害者意識が強まる。

寝食を犠牲にするなどとんでもない話だ。

 

仕事が合っていても将来性が見えない場合

「希望」さえあれば、人は前を向いて生きていくことができる。「希望」一つで、人はたくましく生きられる。

人が絶望するのは「希望」が見えなくなるからだ。

たとえ自分に合う仕事であっても、仕事内容や会社に将来性が見えなければ「やる気」は失せる。

環境に「将来性=希望」を見い出せないなら、一刻も早く去るのが賢明だが、なまじ向いていると現状にしがみつこうとする。

敢えて環境を変えることに、希望よりもリスクの方を感じるからだ。

(5年後やばい)のはわかっていても、「今」無難にやり過ごせているので、(そん時はそん時!)と開き直り、思考停止を無理くり正当化する。

しがみつくけど、やる気は中途半端。積極的な提案もなくチャレンジ行動もない。適当に処理してさっさと帰ろうとする。

といった状況では成長などあり得ないし、人生の充足感など望むべくもないのは言うまでもなく。

彼らは「ライフワークバランスを整えることが幸せだ」と声高に主張する。

プライベートの確保は幸福への必須条件だが、人生の大半を仕事に捧げる以上、つまらない仕事で時間を浪費して果たして幸せなのだろうか?

僕にはわからない。

稼げるならまだいい。だが稼げていないのなら、いくらライフワークバランスを整えたところで、逆に消費が増えて終いである。

 

希望さえあれば、キツい仕事もブラック労働とは感じない

仕事が人生の時間の大半を占める以上、幸せか?否か?のキモは「仕事に喜びを感じられるかどうか」にある。

今の仕事に「希望」「やりがい」「誇り」を感じられるのなら、その人は幸せだ。

もし「やりがい」や「誇り」がなくとも、仕事への「希望」があれば大丈夫だ。希望があるだけで、ある程度の幸福度と尊厳は保つことができる。

公務員当時、僕はなかなかハードな仕事に携わっていた。

近年の官公庁は人員不足と国民の要求が増えたことから、一人頭の業務量が増え続けている。世間が思っているほど甘っちょろい仕事ではない。

激烈な業務だったが、しんどいだけで将来性を感じることができなかった。「やりがい」「誇り」は少なからずあったが、今思えば程度の低い自己満程だ。恥ずかしくていえない。

だが「所得が安定しており、しかも毎年増える」との「希望」があったからこそ、耐えられたのだと思う。

この道で真剣にキャリアを積めば稼げるとの「希望」
適正のある仕事で、無我夢中にやれる「やりがい」
付加価値を高められ、それがダイレクトに社会貢献へと繋がる「誇り」

この3つが揃えば、どんなに過酷な労働環境でも人は幸せを感じるものだ。

逆にいえば、この3つが欠けた労働環境では幸福度はゼロに近づく。

前を向いて生きていくなど到底無理だ。仕事がキツければキツいほど心は踏みにじられ、仕事が楽であっても虚無感しか感じられない。

「希望」

「やりがい」

「誇り」

この3つが欠けた仕事は地獄以外の何ものでもない。

 

人並外れて稼ぐ人は、ブラック労働顔負けに働きまくっている

仕事への希望は敢えて捨て去り、プライベートの時間を多く確保するのも人それぞれだ。それが幸せな生き方だというのも、よく理解できる。

だが、「お金を稼ぎたい」のであれば、その考えは諦めることだ。

ブラックだなんだと騒ぎ立て、やれ週休二日よこせ・残業無くせと要求するのも個人の自由だ。べつに構わない。

だが、それでいて「給料が安い」と文句つけるのはおかしいという話だ。

人よりも稼ぐには、所得を増やすには、人よりも働かなければならない。

労働が価値を生み出し、価値が金を呼び寄せる。これは資本主義社会における原理原則だ。

「生産性を高め、利益を最大化すれば労働時間を減らせる」と、したり顔で語る人もいるが、そこに至るには、数々の「失敗」やハードな下積みがあってのことだ。

めでたく目標利益を達成できたとしても、お次はさらなる利益の追求に追われることになる。

創業10年で年3億もの利益を出す創業社長は、文字通り365日働いている。

フリーランスで月100万以上の売上を確保するには、当初は休みなんざ有って無いようなものだ。

僕の周りにいる「人並み以上に稼ぐ連中」は、本当によく働いている。

彼らはなぜそこまで働けるのか。

仕事が合っているからだ。今の取り組みに「希望」「やりがい」「誇り」を感じられるからだ。

彼らにとっての「働く」という感覚は「いやいやサラリーマン」のそれとは全く違う。

仕事とプライベートが一体化しており「境目」がない。つまり「売ること」が「生きること」に先立っているのである。

そこまでいけば立派な変人だが、彼らからすればそれが当然だし、嫌々働くサラリーマンよりも幸せなのは間違いない。

そこまでハードに働けるかどうかは、何よりお金を稼ぐためには、まずは自分に適正のある仕事に就くこと。

それが最初のスタートラインだ。